


当町会創立三十周年の際に町内全世帯に配布された町会の歴史解説冊子「押上今昔」
この、当町会の先人が遺した、町の生い立ちにまつわるお話は、今を遡ること三十四年前に、当町会の前進である、向島押上町会の創立から三十周を迎えた、昭和五十(1975)年に執筆されました「押上今昔」に、執筆者の孫の代にあたる若輩者の私が、至らぬながらも町の歴史を継承して行く上で、当ホームページに掲載し、後世に語り継いで行くべきと考え、原文のまま掲載させて頂く次第です。
十間川は川幅が十間ある所から十間川の名があり、源森川の延長となって業平橋を下り、又兵衛橋(柳島橋)を経て押上、亀戸の内を斜に東流し、中川に達していました。
寛文年間本所上水(埋められた曳舟川)を開くに当たって横川、源森川合流地点に堤を築いて水路を止め、その後また押上橋の西側に堤を築きその間を鷭の御鷹狩場と定められたので、入り堀の様であったといいます。
押上は明治二十年頃は南葛飾郡押上村字居村耕地といい、北十間川の川沿い南西に位置し(現在の業平2~4丁目)蓮池と田圃の周りに農家が点在し、葦の繁りにまかせたといいます。
明治二十四年他の二村と合流合併し押上町となりました。明治四十三年の大洪水後隅田川の高水を中川に落とす為に北十間川を掘り割り隅田川と合流しました。
この間東武線が明治三十二年北千住~久喜間の開通、同三十五年に北千住~吾妻橋(現・業平橋駅)間、大正十三年浅草~西新井間の開通と北十間、源森以北の繁栄を促進しました。
尚、京成線が大正元年十一月押上~伊豫田間の開通、昭和五年十二月船橋迄延長、同十年七月に千葉に達し同十五年十二月成田線を完成し請地駅(現在の押上一丁目踏切)で東武線と乗換が出来る様になりました。
京成押上駅は現在地下にもぐっていますが、当時は現在の本社の横の広場にあり、鉄筋コンクリートの立派な建物で階段を上って左手に切符売り場があり、また、ホームへ階段で下ったものです。
押上交番も当時より現在の位置にあり、交番の横に人力車の立て場がありました。
大正十二年九月一日関東大震災により焼野原と化した押上町より、小さな白い御神輿を壱基いただいて、大正十四年、現在の町会のこの地域に向島押上町会として押上町と分かれて独立致しました。
昭和四年十一月から八年九月までの区画整理期間中に本所区には四十ヶ町の町会が設立され旧押上町はそれぞれ橋の名をとり業平、平川、横川町となり、向島押上町会も誕生した訳であります、初代町会長は石黒栄寛氏で復興の波に乗り、北十間川にも昭和四年西十間橋、五年に十間橋、六年に押上橋(京成橋の隣にある現在の水道管の渡してある所)が新しく架けられ、京成橋と両押上橋(紺野さんの前にあったお風呂屋へ通う人と犬しか通れなかった橋で現在は無い)も完成しました。
この十間橋より京成橋に至る北十間川の当町側に毎晩夜店がずらりと並び、バナヽの叩き売り、西瓜の切売り、八目鰻、七色唐辛子、植木屋、古道具屋、易者、金魚すくいから古本屋、下駄、草履屋、果てはあやしき薬売り迄出て夏はうちわ片手に浴衣姿がぞろゝと後を絶ゝず、その賑わいは三百六十五夜変わることがなかったと云われます。当時当町だけの世帯数は九百八十戸、人口三千八百といゝ(嘘のサンパチではありません)世界で一位か二位の人口密度と豪語?していました。この夜店の起源は古くいつの頃からかさすがの御長老連も知る人無しで御座いました。
その間歴代町会長は二代目吉沢幸太郎氏、三代目半田忠治氏、四代目谷山忠蔵氏、五代目荻野浩一氏(昭和八年)、六代目河野貢三氏、七代目今井弥右衛門氏、八代目樋口辰二氏(昭和十八年)に至り、昭和二十年大東亜戦争三月の大空襲により町内全て二度目の廃墟と帰し終戦。
見渡す限りの焼野原、富士山がよく見えたものです。やがてバラックがぽつんぽつんと建ち戦後が始まりました。マッカーサー指令により町会は全部解散させられ分会が組織され選挙によって役員が定められ民主主義、自由時代となりました。因みに昭和二十七年七月一日の調査によれば当町世帯数二百二十四戸、人口男五百五十一人、女五百三十四人と復興し、分会長に樋口辰二氏名誉職には市議会議員岡本滝雄氏、同加藤正信氏、区議会議員に小椋善夫氏、区議方面委員に早川岩治氏等の名が見られます。
昭和二十三年より三十六年までかゝった区画整理により現在の町並みが出来上がり、その間九代目町会長に加藤良一氏(昭和二十九年)が選出されすぐ又十代目樋口辰二氏が再任され現在迄二十年間デンとしてゆるぎなく町会をまとめて居ります。
昭和三十九年七月町名が変更され現在の押上一丁目町会となり、お隣の押上一丁目仲町会共々同じ町名となりました。
今迄町内には色々な会が結成され、睦会(祭典)はもとより、押上通り商店会、婦人部、子供会、葉桜会(おばあちゃんの会)、あやめ会(舞踊)、六一会(親睦)まがり会(へそまがりの会)、甚六会(どら息子の会)、わさび会(若手)等々なごやかで仲の良いまとまりのある町会となりました。
昔懐かしい夜店も変わり横丁も無くなりましたが、町は年々発展し、人は豊かになり幸いになりつゝあることを御報告しこの押上今昔に御協力下さいました区役所、町の御長老、皆々様に厚く御礼申し上げ、もしも、資料の間違い誤字のありました時は深く御詫び申し上げます。
青臭萬死
昭和五十年十月
押上一丁目町会 庶務部
三十周年記念準備委員会